昭和52年4月23日 朝の御理解
御理解 第42節 「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」
信心は、どれほどの信心がでけたというても、これでよいということはないというほどしに、限りのないものなんです。えー、それは、んー、身に徳を受けると。ということが信心の、ま、いわば眼目なのですから。いわゆる御利益を受けるということが眼目ではないのです。お徳を受けるというのが眼目なのですから、お徳をもうこれだけ頂いたからこれでよいということ(?)限りがない。ね。ですから、これほど信心するのにということはありません。ね、たとえ、なら、これほど信心するという信心がでけたにいたしましても、どうしてという、その実態。ね、どうしてと思うような、普通でいうなら信心が浅い者やらない者が言うたら、あっちはあんなに信心しござるとにどうしてあんな不幸が続くだろう。また信心をしておっても信心が浅いと、いわゆる、これほど信心するのにということになってくるんです。だからその、これほどにという、その、これほどにというところがです。または、えー、どうしてという(?)なことがです、いうならばお徳のもとになるのです。ですから、ここんところがわかることを、私は悟りが開けるというのじゃないかと思うのです。ね。例えば、お取次ぎを頂いて起きてくること。それは、右と願ったことが左になっても、ね、それをおかげだと確信して受け止められるということなんです。また事実おかげなんです。それがお徳になるのです。なら、あー、みなさんもたくさん体験を持っておられると思うんですけれども、だいたい私のことがそうです。あれほど信心するのにどうして大坪(オオツボ)さんところでは、あんなに貧乏が続くだろう。どうして次々不幸なことが続くんだろう。と人が言い、また私自身もそれをそういうふうに頂いておったら今日の合楽はないです。ね、神様の働きには間違いはないんだと。間違いがあるならこちらにあるんだと、ね、より本当なことへ、より本当な方へと信心を追求していったというところに今日の合楽があるです。そして今日、頂いて思うてみると、あれがおかげであったということになるのです。それはもう、取り返しのつかない、死ぬる生きるということであっても、やはりそうなんです。
昨日は、まー、期せずして、えー、ここで一生懸命信心をなさっておかげを頂いて、えー、その、まあいうならおかげ頂きらなかったということになりますかね、あの、亡くなられた方達が。一人はこれは、えー、山口県の徳山の方でしたからね、吉田(ヨシダ)さんというて。(?)先生の関係の方です。(?)えー、もう癌が、もう、えー、もうあちらこちらに転移して、(?)まあもちろん医学では助からないというほどしの、まあ、状態でしたが。亡くなられてから、こちらに何回となしに、こうしてあの、お願いやらお礼やらが来るんです。それがね、お願いしとりましたけど亡くなりました。けれどもおかげと思わなければおられませんでしたというのが一番初めのお手紙でした。えー、これは何か霊友会の別れのような宗教に入っておられて、もう大変それは熱心に、えー、その、信心をしておられたんです。一家で。それが(?)先生のお導きで合楽の初めて金光様へ、えー、ということが(?)合楽にお参りをして、もう、一心に教えを頂かれて、おかげの泉を大変熱心に読まれまして、ま、心が開けたというでしょうか、もう亡くなられる時には、もう天地書附をずーっと連唱しながら(?)頂かれたと。もう、その死に際というものは非常に綺麗かったと。「生神金光大神天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にあり…」という、その天地書附を、もう本当に息の切れるまで唱えながらお国替え頂いたのですから、間違いなく金光様の世界におかげを頂いて、えー、喜びの御霊、安心の御霊としておかげを受けておることを信じずにはおりられないような、ま、おかげでしたと言うのです。あー、遠いところ九州あたりまでもお参りして、そして、とうとう死んでしもうたと言うたら、それぎりだったでしょうけれども、その後、信心が(?)続いておる。
それから、えー、昨日7時半ごろでした。電話がかかってきときましたが、言われました。福岡に古川(フルカワ)さんという方。たくさんお酒のお供えをなさった方ですね。10本お供えしたら次は20本。あくる日は、その倍の40本といったような、あー、激しいというでしょうかね。もう、それこそこれほど信心したのに、これほど毎日、大変忙しい旅館をしておられる。ほかに事業もしておられます。もう毎日毎日親子でお参りなって、しかも、もう本当に合楽に酒蔵が建たにゃんちいうごと、(?)お供えだけ、たくさんの。そいういう生き方で神様へ向かって行かれた。でもやはり、あの、亡くなられた。でも医者がたまがるように安らかなお国替えになったという時に、やっぱおかげというほどの実感をしておられたけれども、それでも本当におかげと思わなければ、その次のお参りがないはずです。ね、あしこ合楽に打ち込んだばってんだめじゃったと、かえって悪い宣伝ぐらいになるかもしれんけれども、やはりおかげと実感しておられるから、昨日は大変、もう親戚以上の従業員の方の、んー、ご兄弟が、あの、やはり癌で、昨日、まあいうならば、もう難しいというふうに宣告を受けられた。ね、だから自分のところのご霊前もやはり癌であった。ですから、あれだけお願いして、あれほどの信心して助からなかったのであるから、ね、同じ、なら、癌の人を導くはずがないです。おかげ思うておるから導くんです。しかも私の一番都合の悪いのが7時から8時までの間ですけれども、けれどもその時間じゃなかなければ、その、自分なら今からでも行きますけども、その、癌になっておられとる兄弟を一緒に導いてこなきゃならんと。それに息子の都合もあるし自動車で送ってくれて、3人で参っておられました。ね、この42節、43節にありますが、あー、死んだからというて神のおかげを受けずにはおられまいがと。死に際にもお願いをせよと。これは、あー、実際死んだことがなからなけりゃわからないことですけれども、教祖はそのようにおっしゃっておられる。死んだからと神のお世話にならんわけにはいくまいがと。けれども、死に際のあまりの、その美しさというか、あれほどの打ち込み。なら片一方は山口あたりからでも参る、あー、してくると。ね、徳山市、山口、あたりまではお参りをして、または、まあ一方は、その、福岡からですけれども、それはもう熱心というなら、もうこれだけ打ち込んだ、んならお参りはまず合楽でもかってないのじゃなかろうか。例えばお参りとか、もうとにかく、もうでけるだけのお供えならお供えでもさしてもらう。それはもう普通でできることじゃありませんですよね。ね、それだけの、いうならそれほどに打ち込んだ。けれども助かりきりゃじゃった。はあ、神も仏もあるもんかと普通なら言う、思うところですけれども、そこが私は教えを頂いておられたところだと、こう思います。ならその教えで私どもが、どう心を開かなければならないかというと、先ほど申しましたように、どうしてこのようなことがという、そのどうしてこのようなことがということほどに、いうならばおかげであると悟らしてもらう時に一切がおかげと拝める(?)ね、そして、なら私の例を申しましたが、大坪(オオツボ)さんところはあれだけ信心一家でさっしゃるとに、どうしてあんな難儀なことが続くであろうか、ああいう不幸なことが続くであろうかと。けどもその時の私のどもの信心というのは、ね、神様にお願いをしてこれなのだから。お取次ぎを頂いてのことなのだから。ね、けれども、まあだまあだ、本当のことがわかってないのだ、より本当の信心を求めて信心をさせて頂いておりましたら、自分が助かり人が助かるということになって、な、今から振り返ってみますと、あれがおかげであったということになり、亡くなりました御霊なら御霊に対してでも本当にお礼が言えれる。ね、そういう私は、ね、今日はこの42節を大変、いわば深く聞いて頂いたんです。どうしてこのようなことが起こってくる、これはまだ信心が足りんのだと、例えばいうのではなくて、ね、それも次のおかげを頂くためには大事ですけども、ね、そのどうしてというような事柄、そのこと自体が神愛だと、おかげだと悟らしてもらうということです。ね、そこには信心が揺るぎません。いわゆる信心がいよいよ進みます。いや、そういう信心の中身こそお徳だということになるのです。ただおかげを頂いて有難い勿体ないで、どれだけお参りしても拝ましてもろうても、それはいうならば当然のことなんです。けども普通からいうならば、また信心の浅い者からいうなら、これほど信心するのにどうしてというように、そのどうしてというような、その事柄こそが、ね、神様が力をくださろうとする、お徳をくださろうとする働きであると心に悟りが開けた時に、もうあなたは助かったということになる。ね、いや、それがお徳を受けていくことですから、そのお徳の蓄積というか、身に付いていく徳というものを実感する。ね、だから有難いのです。だから起きてくる問題がどうしてというなことであればあるほどにです、はあ、神様、この問題ならこの問題でどういうおかげをくださろうとしておるのであろうかという、いうならば心の中に、ね、苦しいことであっても心の中でにっこり笑えるような心の状態が開けてくるのです。
今日は私、御神前で、えー、汽車に乗っておるという、汽車ん中を、もう一生懸命走っておる人の姿を頂いた。そりゃもう気が気じゃないわけです。もうちっとでん走ったなら、はよ着きゃせんじゃろかというような、そんな感じなんです。ね、信心はこれほどというほどしのような、もう、ことはありません。どれほど信心しても、これですんだということもなかなければ、これでよいといこともありませんけれども、ね、世の中には、いや、お道の信心をさせて頂いとる者の中には、ね、それこそ汽車に乗っておるのですから必ず目的地に、必ず着くんだという安心を持たないために、ね、汽車ん中で走っておるような信心をしておる人がいくらもありはせんじゃろかと思います。ね、いかに汽車ん中で走ったって(?)はないでしょう。それは、いうなら合楽(?)の理念に、ね、基づいた生き方。いわゆる合楽理念ではない基づき方。ね、ただ一生懸命、どうか頑張ってさえおればよいというような、実に愚かなと言おうか、ね、働き損と言おうか。ね、いわゆるくたびれもうけのような信心が実はあるということです。だからそういう信心をする人が、結局どういうことなるかというと、これほど信心したのにということになるのじゃないでしょうか。ね、だから本当に信心の眼目を間違えずに、ね、焦点を間違えずに。ね、いうならば絶対お徳の頂けれる道、おかげの頂けれる道といわれる、なら合楽理念を基にしての信心なら、どれほど、私は打ち込んでも、ね、打ち込みがいのある。ね。それが願いの反対なっていってもお徳を受けとるな、これがお徳を受けておるなと自分でも実感できる。たとえそれが死ぬる生きるというようなことであっても、ね、今言う2人の例を話しました吉田(ヨシダ)さんと、その、古川(フルカワ)さんの話をさして頂きましたが、もう死に際にもです、もうおかげを頂いておると思わにゃおれない。魂の世界に入ってのおかげ、金光大神の世界でおかげを頂いておるに違いはないと思わなければおれないほどしの、いうならばおかげを頂くならばです、ね、やはり打ち込み損ではなかった、やはりおかげが、よう頂いておったということになってくる。そういうね、私は確信に満ちた生き方、または信心。そういう信心はです、はっきりと眼目が目指される。ね、その眼目に向かって進んでおる信心からしか、そういうものは絶対信といったようなものは生まれてこないと思うです。ね、だから合楽で、ならここで教えを頂きながら、ならば、ならどれほどの信心をさして頂いても一つも無駄なことではないということが言えるわけです。そして、いわば振り返ってみてみて、なるほど、あれもおかげであった、これもおかげであったとわからしてもらう。これほど信心するのにどうしてということを言うたり思うたりせんですむ信心を、本当の意味においての合楽の、いうならば理念の確立というのは、ね、まずめいめいの心の中に確立を急がなければならないというのは、そういう信心を、の確立を願わなけらばならんというふうに思いますね。どうぞ。